エッセイ

 先日、車で音楽を聴くためのトランスミッターのセッティングが出来た。音楽を入れたSDカードの容量は128GBあり、その1割にも満たない音楽しか入っていない。私はケチなので、空きがあるならどんどん音楽を入れたいという欲に駆られた。

 私は若かりし頃、やたらとCDを買っていた。「音楽に詳しい=カッコいい 」「タワレコにいる自分=オシャレ」と、何とも痛々しい価値観にとらわれていた。所有欲としてもCDを沢山持っていることで満足感を得ていた。棚いっぱいのCDの山にもうっとりしていた。

 そこで出会ってしまったのが、パソコンというものだ。これからの世の中、パソコンが使えないといけないということで、親はパソコンを買ってくれた。今思えば、その頃のパソコンはお値段が高く、周りにパソコンを持っている人もあまりいなかった。実際、パソコンが目の前にあっても何をしていいのか、何ができるのかはよくわからなかった。漠然と思い描いていたのはパソコンで絵を描く、それ以外のことはさしたる興味はなかった。

 パソコンに詳しい友人がいて、どうやらCDに入っている音楽をパソコンに取り入れて、保存することが出来ると聞いた。普通にCDの音を聴くのと、パソコンに取り入れる際にmp3という拡張子に変換して聴く音の違いが、私には全くわからなかった。長い歳月を費やして、ジョンやポールが作ったビートルズの音楽が、mp3なら全部入るのだ。そしてとても小さなmp3プレイヤーなるもので聴くことができる。そして、ふらりと辺りを見ると、そこはCDの山で、私は一体何をやっているのだろう?このCDの山が無ければ、猫だって部屋の行き来が楽になるのではなかろうか?と、ようやく悟った。CDへのこだわりを捨てる覚悟ができた。ブッダも悟りの境地にたどり着く過程で一番難しかったのは、自分のこだわりを捨てることだと聞いたことがある。

 そこから私は片っ端からCDをパソコンに入れて、二束三文で中古屋に売った。もちろん、手放したくないものだってある。ビートルズとCorneliusだけは持っていたかったので売ることはなかった。CDの山がなく、部屋が広々と明るくなり、猫も過ごしやすそうにしていた。それからの私はCDを買う→パソコンに取り入れる→二束三文で売る、そういうスタイルで音楽を楽しむようになった。そうこうしているうちに、私は歳をとり、音楽への興味が薄れていった。音楽より、伊集院光のラジオや立川談志の落語に心がときめくようになった。

 さて、128GBのSDカードをギチギチに入れたい貧乏根性に火がつくと止めようがないのが私の悪いところだ。しかし、なかなか容量ギチギチにならない。外付けHDDから、若かりし頃に聴いていた音楽を取り込んで、自分が病んでいるのは今に始まったことではないと悟った。言うのも恥ずかしいけれど、当時の「渋谷系」やクラブミュージックにハマっていたなんてまだまだ他人様に晒すことができる。これを黒歴史と呼ぶには、あまりにも甘すぎる。

歳を重ねた今の私がドン引きしたCDが『踊り狂って飯が腐るのだ』『大腸肛門』『つぎねぷ』というタイトルのアルバムだ。久々に恐る恐る聴いてみたけど、何が良いのかわからず、こんなどうかしているCDを買った当時の自分が、哀れでならない。どうして私は王道のジャニーズや、安室ちゃんや、EXILEや何十人もいるアイドルグループに心を奪われないのだろう?それもこれも含めて、自分が病んでいるのだとよくわかった。でも、やはり「どうかしてるもの」という概念が私は好きだ。

実に便利な世の中にはなったけれど、カセットテープやMDに「自分ベスト」なんて編集するのも楽しかった。音の違いがわからないくせに、メタルテープにこだわっていたこともあった。

 ようやく128GBのSDカードに音楽を詰め込んで満足していた。いざ車で聴いてみると、アルバムタイトルのABC順に再生されている。それはそれで全然問題ではないけれど、私はシャッフル再生で聴きたいという欲がでてきた。FMの周波数が合って音楽が流れたときの、あの感動を飛び越えて、シャッフル再生ができるトランスミッターが欲しくなった。人間の欲は恐ろしい。私はできるだけ「足るを知る」というスタイルを忘れたくないのだが、シャッフル再生のためだけに、このトランスミッターが欲しくてたまらない。(文・ねぎ)

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