私は物心がついた時から他人様に「あなたは何かを持っている」と、かなり抽象的なことを言われて42年生きてきた。何かとは、何かしらの才能だと言うが、実際私にはそれらしい才能はない。家電の取り扱い説明書より薄っぺらい人間性しか持っていないはずだ。
5歳くらいの頃、私は自分の顔が人並み以下で、おそらく頭が悪くて、鈍臭くて運動が苦手で、歌も下手で、楽器も弾けなくて、こんな状態で目立ってしまうのは、自分のために良くないことを悟って、モグラのように地味に生きることを決めた。何をもって地味かというのは、幼き私には漠然としたものではあったけれど、本を読んだり、絵を描いたり、ファミコンで遊んだり、何事も一人で楽しむスタイルは、その頃から確立されていたように思う。
幼稚園で参観日があった時、先生は園児たちに海にいる生き物の名前を挙げるように言った。「サメ」「イルカ」「エンゼルフィッシュ」「カメ」「シャチ」「クジラ」等、どんどんみんなが答えていくのを黙って見ていた。ちらりと母を見ると、“あんたも何か答えなさい”というジェスチャーをしている。そこへ先生が「りさちゃんは海の生き物言えるかな?」と要らないことを訊く。私は渋々「…ウツボ」と言った。先生も、園児たちも、そのご家族たちも、みんな「は?ウツボ?なにそれ?」とフリーズしたのを私は感じた。寒々しい空気が痛い。ウツボが海の生き物であるのに変わりはないのに、私が間違いを言ったような雰囲気。ものすごく居心地悪い。こういう場合に他人様があまり知らないものを言うと目立ってしまう仕組みを学んだ。
また、卒園式で将来何になりたいかを発表しなければならなくて、当時の私がなりたいと思っていたものは『おばあさん』で、それを言うと笑われた。率直な思いを寄ってたかって笑うとは失礼だと言いたかったけれど、そこでしっかり言えるほどの気の強さはなかった。
そんなトラウマを抱えたまま小学生になった。やはり私の顔は人並み以下で、本当に頭が悪くて、授業を投げ出してみんなでドッジボールをしよう!と言う先生の粋な計らいを疎ましく感じる、歌も歌ってるふりをして、ちゃんとした地味で目立たない人間に育っていた。
しかし教師というのは冷酷なもので、学芸会で私にフラダンスを踊れと命令した。みんなはピアニカを弾いたり、♪バナナがいっぽんありました~♪と歌うというのに、何故私だけが変なカッコで踊らなければならないのか。華のある映える子がいるのにどうして?何も悪いことをしていないのに、罰ゲームをやらされるようなこの状況で頭の中が忙しくなり、母に泣きながら「自分もピアニカ弾いたり、歌ったりしたい。踊りたくないよ。」と訴えかけたものの、親にしてみれば我が子が一人フラダンスを踊るのは誇らしい様子。父は私のマヌケな晴れ舞台を撮るべくビデオカメラを買い、私に要らぬプレッシャーをかけていた。
私は連日フラダンスの練習をして、先生も家族もバッチリだと楽しそうに言っているけれど、私の心を色で表すと顔色と同じ真っ青そのものだった。学芸会当日も真っ青で、大勢の人の前でマヌケな踊りを踊っているのは、本当に情けないと思った。どうして先生は私に踊らせようとしたのかが未だにわからない。それを家族や友人は、私に“何か”があるからだと言われて片付けられた。
中学、高校と進んでいって、相変わらず大人しく本を読んだり、芸大美大進学予備校にも通うようになった。予備校は強烈な個性を持つ人ばかりで、私が仮に“何か”を持っていたとしても、目立つことなく埋もれていくだろうと安堵していた。
どれだけデッサンを描いても下手なまま。ただ、平面構成での色使いをかなり高く評価されていた。個性派の人たちにガンガン質問攻めされて、それに対して一つ一つ丁寧に答えているつもりだった。できれば話しかけてほしくないと思っている心を読まれて、面白がって話しかけてくるのでは?と猜疑心でいっぱいだ。サトラレなのではなかろうかと真剣に心配していた。
ある日、暇な浪人生たちが『サツビ(札幌美術学園)っ子新聞』というふざけた読み物を書いていた。そこには私が不思議ちゃんで、雨天のみ決行の一人よさこい祭りをしていると、不可解なことがイラスト付きで書いてあった。
個性派の人から見た私はこんなバカなのか。何より私が一番嫌いな不思議ちゃんに分類されたことがショックだった。私は誰が見てもションボリと落ち込んでいた。さすがにやり過ぎたかもしれないと思ったのか、暇な浪人生たちは私に謝罪と言い訳を述べた。私の個性が強いとか、言葉遣いが独特だとか、何かしらの才能を持っている私に嫉妬しての悪ふざけだとか言っていた。くだらない、実にくだらない。「こんなバカげたものを書いているから何年も浪人してるんだろ」と喉まで出かけた言葉をグっと飲み込んで、なんとかスルーした。こんな大人の対応ができるのに、不思議ちゃんと認識されているのは不本意だった。浪人生たちが次の受験も失敗するように呪うばかりだ。
受験に失敗した私は上京して、写真屋で働くようになった。もともと写真を撮るのが好きだったので仕事は楽しかった。店が暇な時に9コマのマンガを描いていて、それが思いの外バイトの人たちの中で評判が良かった。もっと描いてほしいと言われ、暇を見ては描いていた。
バイトの女性の旦那さんが雑誌の編集者で、私のマンガを読んで面白かったらしく、連載を持ってみないかと言われた。私はマンガ家を志していたわけではなかったけれど、自分の作品が世に出てお金をもらってみたいという夢はあったので、二つ返事で連載を始めるようになった。これに関しては私自身が唯一持っていた“何か”だったとは思う。マンガの連載を持つなんて狭き門を私は通ったのだ。ファンレターをもらったりもした。これは人生の中で2番目に人に誇れるものとなった。ちなみに1番の誇りは禁煙ができたことだ。ありがたいことにマンガの連載は10年続いて、雑誌の廃刊と共に終了した。私の“何か”も枯渇していたのでちょうどいい塩梅での終了だった。
それから私は病気を患い、引きこもり、本を読んだり、映画を観たり、絵を描いたりするだけの生産性のない日々を過ごすことになった。一度、個展を開いたこともあったけれど、売れることはなかった。お金を出して欲しい絵というのを私には描けないようだ。
本を沢山読んでいるなら、小説の真似事でも書いてみればどうだと助言されたが、私は単純に本を読んでいるだけであって、何かを得ようとしたり学ぼうと思ったことはなかった。
色々な人との出会いがある中で私がよく言われたのは、やはり「あなたは何かを持っている」という言葉だ。マンガの連載が終了した時点で、私の“何か”は使い切ったわけだから、何も持っていないだろうと私は思う。
「何かを持っている」と言われて頭に思い浮かぶのは、日ハムの斎藤佑樹だ。彼は高校野球でも大学野球でも大活躍し、多くの人に「持っている」と言われ続けたが、日ハム入団後はこれと言って活躍することなく、消えてしまった。彼はその点について「言わなきゃよかったですね」と後悔し、苦笑いをした。
まさにその感じなのだ。何も持っていないのに持っていると勝手に思われ、そうじゃなかった場合の恥ずかしい思いを飲み込む苦しさは、私はよく分かる。何かを持っているならば、もうとっくに何者かになっているはずだ。大器晩成かもしれないなんて図々しいことは考えていない。
では一体、何を志せば良いのかを考えると、宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』にある言葉の通りだと私は思う。欲張らず、よく見聞きして、困っている人を助ける。
「みんなにデクノボーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず」
シンプルかつ的確な言葉。これこそが私の理想だ。(文・ねぎ)