アートバカ

エッセイ

 高校2年生の頃、私が希望した進路は東京にある美術系の専門学校か、任天堂への就職率の高い専門学校だった。若くて単純でバカだから、その専門学校へいけば芸術家になったり、マリオカートの制作に携われると本気で信じていた。その旨を父に話したら、専門学校の為に娘を北海道から出すわけにはいかない。どうしても芸術の道を進みたいならそれなりの芸大・美大へ進学すること。浪人はさせない、という理解のある条件を出してくれているのに、私は専門学校じゃダメと言い張る父を、理解のない大人だと思った。

 それでも私は芸術かぶれしていたので芸大・美大に進むべく、予備校で絵の勉強をすることになった。この予備校に通わせてくれる父に対して、私はものすごく感謝しなければならないのに、予備校に通う人は沢山いるし当たり前だと思っていた。

 予備校では受験向きのデッサンや、平面構成という平面作品における空間と質の表現の技術を勉強した。デッサンは1年で500枚は描いたはずだ。基礎が伴っていなければ、崩すものもないので、数撃ちゃ当たると何でも描くようにしていた。そんな自分に酔いしれるのも痛いバカだからできたものだし、当時、矢沢あいの『ご近所物語』が流行っていて、それに感化された痛いバカは、予備校には沢山いた。

 高校3年の夏期講習で、運命の人に出会った。彼は、ものすごいブサイク。ボサボサ頭のパジャマ姿で予備校に来たのだ。オシャレな人でいっぱいの中にパジャマ姿の彼からは、ロックそのものを感じた。名前を訊いたら「俺トモキ、君は?」と言い、私が自分の名を名乗ると「2番目に好きな名前だよ」と返ってきて、もう一目惚れの骨抜き状態になり、即付き合うようになった。志望大学も同じだったので、受かったら一緒になろうと決意していた。

一方、私は予備校で絵の勉強をしていて違和感を感じていた。受験向けの絵を描けるスキルを身につけるのがこの予備校であって、大学では何をやりたいのか、何を学びたいのか、今ひとつはっきりとしていなかった。そして大学を卒業して何の仕事に就きたいのかも、頭の中でははっきりとしていなかった。それを考えたり決めたりするために4年間も親のスネをかじって、アートがどうこう、自分の創作がどうこう、それらしく人に話して根拠も脈絡もなく芸術家気取りとはバカなんじゃないかと思った。

シンプルに自分の夢は何だろうか?と考えて、『自分の作品が世に出てお金をもらってみたい』という答えが出た。そのために4年と何百万円を費やすのは、賢くないと悟った。

私もブサイクな彼も大学に受からなかったが、高校の卒業式の3日後には東京にいた。一緒に生活を始めたのだ。ある日、桜を見に上野公園へ行った。すると東京藝術大学の生徒と思われる人たちが、99%ゴミのようなオブジェを引きずって歩いていた。何かしらを主張したかったのだと思われる。彼らを見て私は、本当に大学に落ちて良かったと心から安心した。大学に進学してたら彼らのようになってしまうんだもの、恐ろしい。そもそも芸術なんて人から学ぶものではない。良いも悪いも、正解も間違いもない。私の夢『自分の作品が世に出てお金をもらってみたい』これは2年で叶ったので、こればかりは正解だったと自負している。

(文・ねぎ)

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